幼名「牛若丸」こと源義経は刺青の題材としても人気の一つです。
特に弁慶との出会いの五条橋の場面の対をなす構図は刺青の題材として非常に映えます、
本記事では有名な武蔵坊弁慶との師弟関係。無念の最後。一時代を築いた兄「源頼朝」との確執の逸話まで。
有名な逸話とタトゥーデザインについてをご紹介いたします。
義経の逸話ついて
主な登場人物
義経の部下:弁慶
義経の母:常盤御前
親の仇:平清盛
義経はどんな人物?
源義経(みなもとのよしつね)は平安時代末期の武将です。
「平家物語」や「吾妻鏡」、「義経記」など、多くの軍記物や歴史書に登場する大変な人気のある人物で、現代でも有名な武将の一人です。
英雄的な逸話を沢山持ちながら非業の死に終わった彼の生涯は多くの人々の同情を呼び、義経の役職から「判官贔屓」という言葉も生まれたほどでした。
どんな生涯を送った?
義経は河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸(うしわかまる)と言いました。
1160年の平治の乱で、父・義朝が平清盛に破れて討ち死に。義朝の長男は斬首刑となり、次男も討ち死に、後に鎌倉幕府を開く三男・頼朝は流罪。幼い義経もこの時に殺されるはずでした。
しかし、絶世の美女であった母・常盤御前が清盛に見初められ、彼女は3人の子供の命を助ける代わりに、清盛の妾となったのです。
義経の母:常盤御前
命拾いした義経は条件に従って、将来出家させるために鞍馬寺に預けられます。「義経記」によると、この時義経は7才。遮那王(しゃなおう)と呼ばれ学問に励みました。
その後、15歳頃に自分の出自を知った義経は清盛に対し怒り心頭。平家打倒の野心を抱き、鞍馬寺を抜け出しては寺の奥にある僧正ヶ谷で武芸に打ち込むようになりました。
伝説では、この谷に住む鞍馬天狗が義経に剣術を教えたと伝えられています。
月岡芳年「鞍馬寺の大天狗僧正房と剣術修行をする遮那王」
出典元:Wikipedia
義経のこういった動きが平家に伝わった頃、義経は鞍馬山から抜け出し、諸国を転々と放浪します。
この時に出会ったとされるのが、有名な武蔵坊弁慶です。後世の創作では、弁慶は千本の刀を奪う悲願を立て、遂に最後の一本となった時、京の五条橋で義経と出会います。
義経の見事な刀に目を止めた弁慶は彼に挑みますが、あっけなく返り討ちに。弁慶はそれ以来義経の家来になったという逸話が有名です。
やがて、豪商人・金売吉次と出会った義経は、奥州平泉を知り、吉次と共に平泉へ下ります。そこで奥州藤原氏の当主・藤原秀衡と出会い、彼の庇護を受けるようになりました。
そして、1180年、後白河法王の息子・以仁王が平家追討を発令。それを受け、遂に兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げます。
兄の挙兵を聞きつけた義経はそれに馳せ参じ、感動の初対面を果たします。
平家打倒のために動き出した義経は、天才的な戦術家として圧倒的な強さを見せつけました。
一ノ谷の闘いでは、崖を駆け下りて平家本陣を奇襲。のちに「鵯越の逆落とし」と言われる奇想天外の戦法で平氏を大混乱に陥れます。僅かの騎兵で義経は大勝利を収めました。
鵯越の逆落とし
屋島の戦いでは、暴風雨のなか船を使って平氏側の背後に回り込み奇襲攻撃し見事勝利。
そして、天下分け目の決戦、壇ノ浦の合戦。
一時追い込まれた義経でしたが、的確な指示により形勢逆転。見事勝利して平家を滅ぼし、最大の功労者となりました。
周延
壇ノ浦の戦い(仮題)
しかし、その圧倒的な強さは、腹違いの兄・頼朝からの不信感を呼んでしまいます。
その理由はいくつか推測されていますが、一つは兄の頼朝に対し兄弟として同等の立場を望んだことです。
頼朝からすれば自身は正当な正室の子であり、源氏をまとめる頭領の立場。主に対しての態度を示さない義経に不満を募らせました。
更に、義経は頼朝の許可を得ることなく後白河法皇から官位を受けてしまったり、平氏との戦いにおける独断専行や、壇ノ浦の戦いで三種の神器のうち草薙剣を消失させてしまったことなどを責められます。
遂には頼朝と対立し、朝敵とされてしまったのです。
義経は難を逃れ再び藤原秀衡を頼りましたが、まもなく秀衡は病死。秀衡の死後、頼朝の追及を受けた新当主・藤原泰衡は義経に軍勢を差し向けます。
現在の岩手県平泉町にある衣川館に立てこもった義経は、ここで妻の郷御前と娘と共に自害し、その生涯を終えました。
また、家来の弁慶もこの館の前で敵兵と対峙、身体に無数の矢を受け立ったまま絶命し、所謂「弁慶の立往生」を遂げたと言われています。
数々の伝説を残した死後の義経
後世の人々は、義経について多くの伝説を産み出しました。有名なのは義経は死なず逃げたという不死伝説、海を越えて大陸に渡り、チンギス・ハーンになったという説(学術的には完全に否定されています)等です。
また、「吾妻鏡」にも記されているのが静御前とのロマンスです。壇ノ浦の戦いの後、義経は静御前という白拍子と出会います。
兄・頼朝が刺客を送った際に窮地を救い、吉野まで共に逃げたものの、女人禁制の山を前に泣く泣く義経と別れます。
彼女は義経の子を身ごもっており男児を出産しますが、頼朝の命で由比ヶ浜に子を沈められたという、悲しい逸話が残っています。
最後に、義経が生前から人気があったと窺えるエピソードをご紹介しましょう。
頼朝の敵となり、追いつめられた義経が平氏や木曾義仲のように狼藉を働くのではないか?と都中が不安になりましたが、彼は騒ぎ立てることもなく、静かに都を去ったと言われます。
日記「玉葉」の記主である九条兼実は頼朝派の人間でしたが、義経のこの平穏な京都退去に対し「義経の所行、まことにもって義士というべきか」「義経は大功を成し、その甲斐もなかったが、武勇と仁義においては後代の佳名を残すものであろう。賞賛すべきである」と褒め称えています。
まとめ
義経は刺青の題材として人気の英雄ですが実際の彼の物語は華々しいだけではなく悲運も孕んだストーリーとなっております。
しかし弁慶のような豪傑を部下にすることなんかは漫画にも通ずるような非常に面白いストーリーですよね。
これから義経の刺青を検討している方はストーリーを知ることをお勧めします。
義経が記述されている書籍
源平武将伝 源義経 (コミック版日本の歴史) 単行本 – 2009/10/1
義経が題材の絵