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平将門の刺青|三大怨霊と呼ばれるまでの逸話タトゥーデザインを紹介

平将門といえば皆さんは何が思い浮かぶでしょうか。

私は将門の首塚です。「刺青の題材として怨霊を彫るって...」と思う方もいらっしゃると思います。

本記事では武勇を誇った歴史から、将門が日本三大怨霊と呼ばれるようになった経緯までをご紹介いたします。

平将門のデザインの特徴

将門のデザインの特徴

将門の逸話

平将門はどんな人物?

平将門(たいらのまさかど)は平安時代中期の武将です。
「平将門の乱」で有名な彼は、死後のエピソードが影響して、崇徳上皇と菅原道真と共に「日本三大怨霊」として後世の人々から恐れられました。

どんな生涯を送った?


桓武天皇の血筋を引く平将門は、15才で立身出世を夢見て京に上りました。
しかし、志願した役職は藤原氏が独占しており就くことは叶わず、更に父・良将が早世してしまいます。


失意の中、関東の父の所領に戻ったところ、追い打ちをかけるように叔父の良正、良兼、国香に横領されていることが発覚します。
更に、将門が妻にと望んだ源衛の三人の娘がそれぞれ良正、良兼、国香に嫁いでしまい、将門は憤慨。
遂に935年、将門は源衛の3
人の息子と、叔父の国香を殺害してしまいます。


息子を殺された源衛と残された良正、良兼は将門討伐を企てます。
しかし、源衛と良正は将門に大敗。続いて良正は良兼と国香の子・貞盛と連合軍を作って将門を攻撃しますが、総崩れ。
追い詰められた源衛は、朝廷に将門の非を訴え、将門は捕らえられてしまいます。

しかし、937年、朱雀天皇が元服する際に恩赦が行なわれ、自由の身に。
良兼は再び軍勢を起こし将門を攻撃しますが、今度は将門が良兼と貞盛の行状を訴え、朝廷から良兼、貞盛追捕の官符が発せられます。
これにより良兼軍の勢力は衰え、良兼は939年に病死。貞盛は行方知れずとなりました。


一連の将門の連戦連勝ぶりは関東で大きく広まり、名声は大いに高まりました。

そして、有名な平将門の乱が起きたのは93911。藤原玄明という人物が、税金の不払い問題等で常陸国司と対立し、将門に助けを求めたのが始まりです。
藤原玄明は、意志を持って税金を払わず、朝廷が管理する蔵を襲っては米を民衆に分け与えていた、義賊のような存在でした。

常陸国司は将門に藤原玄明の引渡しを要求しますが、将門は応じず、遂には合戦となります。
将門は1000の兵で常陸国府軍3000の兵に大勝。そして、常陸国府を焼き払い「印綬」という朝廷が国司に与えた証明書を略奪。これは、将門が朝廷から常陸国を奪い取ったことを意味します。これにより、将門は完全に朝敵となってしまいました。

地元の武士であった藤原秀郷との一騎打ち

地元の武士であった藤原秀郷との一騎打ち


実は将門は、朝廷の要職を藤原氏が独占し、地方の政治は国司が横暴をはたらき、民衆は朝廷から派遣された国司からの重税や労役にとても苦しめられるという状況に、元々かなり憤慨していたと言われています。


常陸国府軍に勝った将門はさらに勢いを増し、国司から次々と印綬を奪って追放していきます。
上総・下総・安房・下野・武蔵・相模の関東8か国を占領。行く先々で朝廷の悪政に苦しんでいた民衆を味方に付け、自ら新皇と名乗るに至ります。
日本で最初の軍記物語である「将門記」には、将門は八幡大菩薩の神託を受けて新皇を自称したと記載されています。

将門の謀反に朝廷は大激怒し、将門討伐を決意。まずは平安時代らしく将門を呪い殺すための祈禱をしますが、効果はなし。朝廷はなんと「将門を討ち取った者は、身分を問わず貴族にする」と、全国に通達を出しました。

これを知った、以前から将門に恨みを持つ平貞盛と、貴族に強い憧れがあった藤原秀郷(別名・俵藤太)が連合して出陣。この戦いで、藤原秀郷の矢が額に命中し、将門は討死します。

怨霊となった死後の将門

死後時間が経って中世になると武士達の崇敬を集めるほどの武勇を誇った将門には、様々な逸話が残っています。

「常に7人の影武者を従え敵を混乱させるのが得意だった」、「日本で一番最初に日本刀を作らせた」等です。


少し切ないエピソードとしては、将門が源氏の兵に捉えられた時、影武者達も同時に捉えられました。影武者達は一様にそっくりだったため、なかなか処刑に踏み切ることが出来ずにいたのですが、将門の愛妾・桔梗姫が「本物の将門は食事の折こめかみが大きく動く」と言う事を白状してしまい、本物の将門公は首を打たれた、という逸話です。処刑される間際、将門は処刑場の傍に聳える城峯山を睨み

 

「この山に 桔梗あれども 花咲くな」

 

と詠んだとも言われます。


将門の死後、首級は平安京の七条河原に運ばれ、史上初とされるさらし首の刑となります。しかし、その頭部は何か月経っても生きているかのように目を見開いて腐らず、夜な夜な「斬られた私の胴体はどこにあるのか。持って来い。首をつないでもう一戦しよう」と叫び続けました。


それを歌人の藤六左近が見て「将門は こめかみよりも 射られけり たはら藤太がはかりことにて」と歌を詠むと、将門の首はケタケタと笑い出し、関東目掛けて高く飛んでいったとも、そのまま朽ちたとも伝えられます(太平記)。
東京都千代田区大手町にある将門の首塚は、その首が力尽きて途中で落ちた場所に建てられたと言われています。

平将門が記述されている書籍一覧

平の将門 (吉川英治歴史時代文庫) 文庫 – 1989/5/9

学習まんが 少年少女 人物日本の歴史 平将門 Kindle版

平将門の深層 ペーパーバック – 2019/5/1

まとめ 

将門は現在多くの都市伝説が語られています。歴史を知れば彼が呪いたくて今に繋がっているのではなく親族に恵まれず、友に恵まれなかった悲運の生涯を迎えていることが伺えます。

誰もが彼の様な人生を迎えたくはないと思うと思いますが、彼の屈しない精神、自身の心情を貫く心は見習うことが多いと感じました。

将門の報われない人生を元に刺青を入れるより、彼の不屈の精神を志に刺青をいれることをおススメします。

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