豊臣秀吉に忠義を尽くした武将、加藤清正。
築城の名手・土木治水の神様として今も「清正公(せいしょこ)さん」の愛称で熊本市民に愛され続ける加藤清正。
神へと昇華するまで愛された逸話。刺青の題材として有名な虎退治のエピソードをご紹介いたします。
加藤清正デザインの特徴
清正は十文字の槍を愛用しておりました。ですが虎と戦った時に、その片方の刃を折られてしまった、という伝承があります。
このため、その槍は「片鎌かたかま槍」と呼ばれるようになりました。
出典元:Wikipedia
秀吉の小姓
清正は1562年、尾張国(愛知県)中村で生まれました。
父は尾張(愛知県)の刀鍛冶・加藤清忠、母の伊都は秀吉の母・大政所の従兄弟です。
1573年、秀吉は12万石の領地を治める近江(滋賀県)長浜城主となり、11歳の清正を小姓にします。
清正は親類ということもあり秀吉に可愛がられ、3年後には170石の武士としての身分を手に入れます。
賤ヶ岳の戦い
清正は秀吉が中国地方の攻略戦を行っていた頃から戦場に出るようになりました。
1581年、備前(岡山県)の冠山城を攻めた際は城内一番乗りを果たし、武将を討ち取っています。
翌年、明智光秀の謀反により織田信長が死去。秀吉は天下人となるべく活動を始め、清正の身分も大きく変化していきます。
1583年、信長亡き後、信長の家臣・柴田勝家と秀吉の間で主導権をめぐる内部抗争が勃発。「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」が始まります。
清正はこの戦いで敵将・山地正国を討ち取る武功をあげ「賤ヶ岳の七本槍」で世に知られる存在に。
この武功を評価された清正は秀吉から3千石の領地を与えられ、さらにその後、肥後国(現在の熊本県)の北半分を任され、一躍19万石の大名になりました。
清正は城の改修に着手し、城の改修は1600年代まで続きます。この城が「武者返し」と呼ばれる石垣で知られた熊本城です。
朝鮮出兵と秀吉の死
1592年、国内の天下を治めた秀吉は軍を朝鮮へ向けます。
清正も朝鮮へ出陣し現地で多くの武功をあげます。
しかし虚偽報告の疑惑や独断専行の罪で訴えられ、清正は京都に戻され謹慎を命じられてしまいます。
1597年、再び朝鮮へ出兵しますが、負担を強いられた諸大名の豊臣政権への不満をさらに高めることに。
翌年、秀吉が死去し、清正らは朝鮮から帰国。
徳川家康が大きな力を握り、家康と清正は急接近し始めます。家康の養女を清正の後妻とし、両者の関係は強化されます。
1599年加藤清正、福島正則、黒田長政ら7人の武将は石田三成を襲撃しますが、三成は逃げ延び、襲撃は失敗に終わります。
加藤清正の虎退治
朝鮮出兵のころに彼が演じることになった大立ち回りこそ、「加藤清正の虎退治」である。
あるとき、清正の陣の近くに虎が現れ、馬を連れ去られたり家臣を殺されたりといった事件が起きた。
これに激怒した清正は自ら山狩りを行い、ついに一匹の虎と遭遇する。
鉄砲を持った家臣たちがこれを撃とうとするが、あえて自ら虎に立ち向かった清正は、槍を虎の喉に突きこんで殺害した、という。
※実際は槍ではなく鉄砲で仕留めたようです。
仕留めた虎は塩漬けにし、健康のためにと秀吉に送り秀吉はそれを食した。と言われております。
関ヶ原の戦い
1600年、「関ヶ原の戦い」が開戦。
島津氏の内乱への介入で家康の不信を買い、謹慎の身となっていた清正は戦いには参加していませんでした。
そんな中、西軍(石田三成側)の大将・毛利輝元から寝返り工作の誘いを受けるも清正は応じず、九州各地の西軍勢力の鎮圧に力を注ぎます。
関ヶ原の戦いは徳川家康率いる東軍勝利に終わり、行長と三成はともに京都で処刑。
戦後、清正は功績を認められ肥後熊本藩52万石の初代藩主となり、1605年には肥後守を任されるなど名実ともに大大名となりました。
清正の急死
1611年、豊臣家への忠義を忘れていなかった清正は、二条城で豊臣秀頼と家康との会見を取り持ち、和解を斡旋しました。
会見後、清正は帰路の船内で突然発病し、回復しないまま3ヶ月後に熊本で死去。
享年49歳でした。
加藤清正が記述されている書籍
戦国人物伝 加藤清正 (コミック版日本の歴史) 単行本 – 2007/5/1
加藤清正と忠廣 肥後加藤家改易の研究 単行本 – 2019/6/24
忘却の日本史 19号 加藤清正の生涯を追う 雑誌 – 2019/10/1
まとめ
清盛の突然すぎる死の原因については諸説があり、現在も謎に包まれています。清正が生きていたら、豊臣家滅亡という結末は変わっていたかもしれません。
清正は虎退治で分かるように勇猛果敢で忠義に厚いという男らしい人にふさわしい刺青の題材です。そんな男を目指す方におススメの刺青です。