「金太郎」といえば、昔話や童謡でもおなじみの物語ですよね。
でも意外と知られていないのが昔話の続き、つまりは金太郎が成長した「坂田金時(さかたのきんとき)」についてです。
この記事では、坂田金時(金太郎)にまつわる伝説や逸話、タトゥーデザインの特徴、刺青が持つ意味についてご紹介していきます。
坂田金時の物語
登場人物
金太郎伝説
坂田金時 幼名:金太郎(怪童丸)
金太郎にはいくつもの伝説が存在しますが、静岡県駿東郡小山町にある金時神社に伝わる伝説が、昔話で知られたものに比較的近いとされています。
『彫物師十兵衛の娘・八重桐(やえぎり)が京に登った際、宮中に仕える坂田蔵人と結ばれ懐妊し、故郷に帰り956(天暦10)年5月、金太郎が誕生しました。
しかし蔵人が亡くなったため、八重桐は京には戻らず、金太郎を故郷で育てることに。
金太郎はすくすく育ち、足柄山で熊と相撲をとるなど、孝行者で元気で優しい子供に育ちました。』
異説には、
「母親が山姥(やまんば)で雷神の子供を身ごもり産まれてきた」
出典元:Wikipedia
「金時山の頂上で赤い龍が八重桐に授けた」
などがあります。
※金太郎は相模の足柄山にすむ山姥が、雷鳴のなかで赤竜と通じる夢
をみて生んだ為、全身真赤なたくましい男の子であったとされています。
金太郎の鯉退治
出典元:Wikipedia
天延年間(九七〇年ころ)足柄山今の京都府にある山のふもとを流れる川に人や馬をひきすりこんで食べる魔物がすんでいると言ううわさがひろまった。
それを聞いた足柄山にすむ坂田の金太郎は人々のとめるのも聞かすに川に飛びこんだ。
背に古い藻をはやしたお化けの様な大鯉を見つけ、これぞ魔物かと激しい格闘の末やっとのことでそのお化け鯉を退冶したのである。
源頼光と運命的な出会い
976(天延4)年4月、足柄峠で源頼光は金太郎と出会い、金太郎の胆力を見抜いて家来にします。
金太郎は頼光に仕えることになり、名前を「坂田金時」と改名。その後、出世を重ね立派な侍となった金時は「頼光四天王」のひとりと呼ばれるようになり、有名な「大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)退治」などで活躍しました。
大江山の酒呑童子退治
その頃、都に大江山の酒呑童子がたびたび現れ姫君を次々と連れ去り、人々から恐れられていました。
天皇の命で酒呑童子退治に向かった頼光率いる四天王は、山伏(やまぶし)に変装。
「神変奇特酒(じんべんきどくしゅ)」という鬼が飲むと毒になるお酒を飲ませることに成功し、酒呑童子討伐を成し遂げました。
〈頼光四天王〉
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坂田金時
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渡辺綱(わたなべのつな)
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礁井貞光(うすいさだみつ)
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卜部季武(うらべのすえたけ)
その後も金時は武士として源頼光に仕え続けますが、1012(寛弘8)年1月11日、九州の賊の征伐のため筑紫(福岡県)へ向かう途中、美作(岡山県)で重い熱病にかかり、死去。享年55歳でした。
坂田金時は実在した?
金太郎が成年してからの名前を「坂田金時」といいますが、実のところ坂田金時が実在したのかは疑わしいとされています。
実際は「藤原道長」に仕えていた「下毛野公時(しもつけののきんとき)」という人物が金太郎のモデルだったのだとか。
下毛野公時は「相撲使」という役職だったことから、「金太郎は力持ちで熊と相撲をとった」という昔話ができたのだと思われます。
当時の道長の日記や『小山町史』によると、「下毛野公時という優秀な随身(近衛兵)が道長に仕えていた」とあり、この公時が脚色されて坂田金時の伝説として語りつがれてきたのだといわれています。
坂田金時(金太郎)が記述されている書籍一覧
英雄伝説の日本史 (講談社学術文庫) 文庫 – 2019/12/12
まとめ
昔話での英雄的なイメージから伝説が多く、さまざまな解釈がされている「金太郎」は端午の節句に男の子の飾りとして金太郎が用いられております。
大人になった姿「坂田金時」の物語は頼光四天王としての活躍は確認できますが、単独の活躍はあまり目立ちません。ですが、古くから伝わる昔話や伝説を、深く調べてみると新たな発見があり、おもしろいものですね。
金太郎を刺青の図柄の意味として「出世」、「武勇」、「強さ」という意味を持って彫る方が多いです。また「立身出世」や「強健」を祈り、守り神としての金太郎の刺青の図柄として選ばれております。
刺青のモチーフとしてシンプルながら力強さを表現できる、かなり優秀な題材ですので、おススメのタトゥーデザインです。