日本でもっとも知られた義賊といえば、釜茹での刑で処刑された石川五右衛門ではないでしょうか。
日本映画や歌舞伎・浄瑠璃、また漫画やゲームでも庶民に親しまれ有名な石川五右衛門ですが、その実像はあまり知られていません。
この記事では、石川五右衛門の伝説と壮絶な結末、タトゥーデザインのアイディアについて紹介します。
石川五右衛門は実在していた
石川五右衛門は、伝説や創作の人物ではないかという説がありますが、1594(文禄3)年8月24日に処刑されています。
イエズス会の宣教師が記した『日本王国記』の中に、石川五右衛門の処刑についての記述が見つかっているので、実在した人物であるのは間違いないでしょう。
しかし、あくまで盗賊として処刑されたこと以外、人物像やどのような罪状で捕らえられたのかはわかっていません。
石川五右衛門という人物像は、さまざまな推測や人々の間で広まった説によって語り継がれた人物だといえます。
石川五右衛門の英雄説
石川五右衛門には多くの伝説がありますが、「庶民に親しまれた大泥棒・石川五右衛門」としてたいへん有名です。
それには、石川五右衛門が盗みを働く相手が豪族や豪商などの権力者だけであったため、庶民は石川五右衛門を「義賊」と呼び英雄化していいました。
しかし支配層から見れば、義賊というものは民衆を扇動して権力の基盤を揺るがしかねない、もっとも危険な存在であったといえるでしょう。
「釜茹での刑」の実態は?
石川五右衛門が捕らえられた理由には、
- 「豊臣秀吉の甥である豊臣秀次の家臣・木村常陸介に豊臣秀吉暗殺を依頼された」という説。
- 「豊臣秀吉の居城に押し入り、盗みを働こうとした」という説。
この2つの説が有力とされていますが、処刑される具体的な罪状についての記録は残されていないようです。
石川五右衛門が処刑された釜茹での刑とは、言葉の通り「煮えたぎる釜の中で煮殺す」という残忍なものでした。
また、実際には湯ではなく油を使ったという説もあります。
石川五右衛門は、母親や実子、仲間全員が市中引き回しの上、釜茹での刑に処されました。
五右衛門は実の子供と一緒に釜に入れられますが、その最後の行動にはいくつかの説があります。
「自分が息絶えるまで子供を持ち上げていた」「苦しませないようにと一思いに子供を釜に沈めた」という子を思う親心を表す説や、「あまりの熱さに子供を下敷きにした」という説があります。
これは五右衛門風呂に入る際、「さな」と呼ばれる板を踏み敷き、直接足が熱い底に触れないようにした所以(ゆえん)とされています。
石川五右衛門が記述されている書籍一覧
真説 石川五右衛門〈上〉 (徳間文庫) 文庫 – 1989/4/1
真説 石川五右衛門〈下〉 (徳間文庫) 文庫 – 1989/4/1
悪道 五右衛門の復讐 (講談社文庫) 文庫 – 2017/9/13
まとめ
石川五右衛門は実在していたとはいえ、その半生はどこにも記されていないために数々の伝説が生まれ、語り継がれてきました。
石川五右衛門が辞世の句として残した「石川や 浜の真砂は 尽くるとも 世に盗人の種は尽くまじ」。
“石川家は無くなっても、砂浜の砂が無くなっても、この世から盗人がいなくなることはない”という反省どころか開き直るようなこの捨て台詞が、まさに天下の大泥棒らしいですね。
刀を持っていないイメージや躍動感がないイメージが少ない為、刺青の題材としてはあまり見かけないデザインです。
窯茹での場面は刺青ので映えるデザインと感じます。