平安時代の世に悪行を重ね続け、その名をとどろかせた凶悪な盗賊「袴垂保輔(はかまだれやすすけ)」。
保輔は、貴族の家柄に生まれ育ち、正五位下・右京亮の官位を叙任されていながらも、徐々に悪の道へ足を踏み入れていきます。
この記事では、貴族から盗賊に堕ちた袴垂保輔の生涯と関連書籍を紹介します。
袴垂保輔の経歴と悪行
歌川 芳艶:破奇術頼光袴垂為搦
出典:pintrest
袴垂保輔は、平安時代中期の貴族・藤原保輔(ふじわらのやすすけ)と同一人物だとされています。
保輔の父は、従四位下・右京大夫の官位を叙任されていた藤原致忠(ふじわらのむねただ)。
兄には、道長四天王の一人として名を馳せた藤原保昌(ふじわらのやすまさ)がいます。
保輔は貴族として家柄にも恵まれた環境にありました。
しかし、寛和元(985)年、左大臣・源雅信の邸宅で開かれた宴会の帰りに、保輔は兄・藤原斉明(ふじわらのときあきら)と共に藤原季孝の顔を傷付ける事件を起こします。
その後保輔は、斉明を捕らえた検非違使を弓で射たり、貴族の屋敷で強盗を行ったりして、罪を重ねていきます。
これらの罪状により保輔の捜索は続けられ、朝廷は「保輔を追補した者には恩賞を与える」とまで発表します。
日本最古の「切腹」とされる袴垂保輔の最期
保輔を見つけられない朝廷は、保輔の父・致忠を監禁し拷問にかけます。
保輔はこの事態に危機感を感じて、剃髪し花園寺へ出家していましたが、保輔の元手下に密告されてついに捕縛されました。
逃げられないことを覚悟した保輔は、最後の抵抗として自ら腹部に刀を刺し、腸を引きずり出して自害を図ります。
しかし、すぐには死ぬことができず、翌日その傷が元となり保輔は獄中で息絶えました。
これは記録に残る日本最古の切腹の事例とされ、これ以降に武士が自殺する手段として切腹が用いられるようになったといわれています。
袴垂保輔にまつわる説話
歌川国貞:盗賊袴垂保輔 市川市蔵
『今昔物語集』には、藤原保昌という男の豪胆さを伝える中で「袴垂」という盗賊が登場します。
これは、保昌の武勇を強調させるために大盗賊の袴垂を登場させたのではないかとされています。
袴垂が保昌に追いはぎを試みるも、逆に保昌にやり込められて衣服を与えられて恐縮してしまうというお話です。
また、『宇治拾遺物語』では、袴垂は保昌の弟・藤原保輔とされています。
そして、より残忍な悪党の姿が語られています。
保輔は屋敷の蔵の床下に井戸のように穴を掘り、あらゆる物売りの商人たちを呼び入れます。
商人から物を買い入れ、「代金を払う」と商人を蔵へ連れて行き、次々に掘った穴に突き落とし殺害。物をすべて奪い取りました。
帰ってこない物売りたちを不審に思う者がいながらも、皆埋められてしまったために言及されることはなかったと語られています。
袴垂保輔が記述されている書籍一覧
まとめ
平安時代に名をとどろかせた盗賊の「袴垂」には、実際のところ名はありません。
しかし、同時期に貴族の藤原保輔が数々の悪行を働いていたことから、袴垂と藤原保輔は同一人物だとされています。
日本の初期の系図集『尊卑分脈』に残る藤原保輔については、「本朝第一の強盗の大元」と記されています。
頼光一行と退治する保輔は悪の大将といった貫禄で非常にカッコいいですね。袴垂保輔が題材の刺青は見たことがないので是非見たいところです。