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源頼朝の刺青|頼朝の波乱に満ちた生涯とタトゥーデザインをご紹介

源頼朝といえば、鎌倉幕府の初代将軍です。

実は、江戸幕府まで700年も続いた「武家政権」を築いたのが源頼朝だということは有名なのでご存じの方も多いと思います。

この肖像画の印象が強いので刺青のデザインとしてのイメージは少ないですが、若かりし頃の頼朝が浮世絵で描かれており刺青のデザインとしてもとても映える武将の一人です。

この記事では、源頼朝の波乱に満ちた生涯。刺青のデザインを作成する上での特徴タトゥーデザインについて紹介します。

デザインの特徴

源頼朝デザインの特徴

・兜正面の"鍬形(くわがた)""魔除け"の意味 があることから 怒りの形相にの獅子があしらわれている。

・頼朝が戦に参戦している画は少ないため、甲冑を着ている姿自体珍しいですが、珍しい鍬形が特徴を表しております。

源頼朝の逸話

登場人物

頼朝の弟:源義経

北条政子

白河天皇

平治の乱

1147(久安3)年、源義朝の三男として生まれた頼朝(幼名は鬼武者、または鬼武丸)は、二人の兄と異なり実母が正室だったため、幼少期から後継者としての高い教育を受けて育ちました。

保元の乱で後白河天皇に従い勝利に貢献した源義朝でしたが、1159(平治元)年の平治の乱で平清盛に敗戦。

13歳だった頼朝は父に従い落ち延びますが、義朝は逃亡途中に尾張で長田忠致に謀殺。長兄の源義平と次兄の源朝長も命を落としてしまいます。父たちとはぐれた頼朝は、平家に捕まり京都へ送られることに。

源氏の後継者である頼朝が死刑になるのは当然でしたが、平清盛の義母・池禅尼(いけのぜんに)らによる助命の嘆願により救われ、伊豆・蛭ヶ小島(ひるがこじま)に流刑となりました。

流刑地での結婚平家討伐

前田青邨「洞窟の頼朝」

伊豆での約20年間の流人生活の中、頼朝の監視役だった北条時政の長女・北条政子と大恋愛の末に結婚。その土地の豪族たちの支持を集めていきます。

1180(治承4)年、御白河法皇皇子・以仁王(もちひとおう)が源氏一門に平家追討の令旨を発すると、頼朝は東国の諸豪族を集め挙兵しますが、石橋山の合戦に敗れ安房へ逃亡。

この際僅か10人で逃亡。平野仁右衛門に匿われて仁右衛門島洞窟内で一晩過ごし、その恩から自分たちが一晩過ごした仁右衛門島を島まるごと与えたと言われております

 

しかし頼朝は「東国の武士」たちを味方につけることに成功し、鎌倉を本拠としたのちに再び挙兵したのです。

頼朝の進軍を聞きつけた異母弟・義経と範頼が参上し、平家を追い詰め、1185(文治元)年、壇ノ浦の戦いにより平家を滅ぼしました。

義経との亀裂と奥州合戦

義経とは度々対立しておりましたが平家滅亡後、兄弟間の関係は悪化し対立することになります。

そして後白河法皇と義経が組み頼朝を倒す策略を企(くわだ)てますが失敗。義経は奥州藤原泰衡の元へ逃亡します。

義経をかくまった藤原泰衡は、頼朝の圧力に屈して義経を自害に追い込むことに。1189(文治5)年に義経は自害。そして頼朝は義経の自害をきっかけに、奥州藤原氏を滅亡へと導きました。

僧”聖弘”は義経を庇護したことを詰問する頼朝に対し、

「今関東が安泰であるのは義経の武功によるものである。讒言を聞き入れ恩賞の土地を取り上げれば、人として逆心を起こすのも当然ではないか。義経を呼び戻し、兄弟で水魚の交わりをされよ。自分は義経のみを庇って言うのではなく、天下の無事を願っての事である。」

直言しました。頼朝はその言葉を、 義経を憎みきっていたわけではないことが伺える。頼朝は政治家であり、義経は軍人であった兄弟の確執はそれによるところかもしれないですね。

鎌倉幕府設立

1185年の壇ノ浦の戦い後、朝廷を左右するほどの力を持った頼朝は守護・地頭の設置を認めることを求め、全国の荘園を思い通りにできるようになっていきます。

1189年、朝廷より奥州征伐を称える書状が下り、頼朝は按察使(あんさつし/あぜち) への任官を打診され、さに勲功のあった御家人の推挙を促されるが、頼朝は辞退しました

そして1192(建久3)年後白河法皇が崩御(ほうぎょ)し、同年即位した後鳥羽天皇によって 頼朝は征夷大将軍に任ぜられ、この先700年続く「武家政権」が始まったのでした。

この年に鎌倉幕府が開かれたとされてきましたが、近年では守護・地頭を設置した1185年が幕府の成立だともいわれています。

頼朝は1199(正治元)年に急死、享年53歳。落馬が死因だとか、飲水の病など諸説あるようです。

頼朝の死後、後を継いだ息子たちは次々と暗殺。頼朝の血を引く源氏将軍はわずか3代で断絶することとなるのでした。

まとめ

大事業を成し遂げ政治の実権を握った源頼朝。

守護・地頭の設置など、この時代から現代にもつながる土台を作り始めるなど、知的な武将だったことが伺えます。

生涯において前線で戦うことは少なかった為か、武者絵として残っているものが少く、デザイン制作が難しい題材ではあります。ですが、天下の大武将ですので珍しい刺青を入れたい方にはおススメのです。

頼朝が記述されている書籍

源頼朝-武家政治の創始者 (中公新書)

源頼朝―東国を選んだ武家の貴公子 (日本史リブレット 人)

角川まんが学習シリーズ 日本の歴史 5 いざ、鎌倉 鎌倉時代 単行本 – 2015/6/30

頼朝が題材の絵

頼朝タトゥー

 

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